1991年の夏、2店目となる店を開店させた。店の名は「バップバー・ゴア!!」。「TOOTH TOOTH」での食後の時間を楽しんでもらえるよう、TOOTHから5分で移動できる場所に、隠れ家的な店を構えたのだ。BGMに・ハード・バップ(※1)・が流れる、どこにも存在しない怪しげでクールなバーである。
  店の名をゴアと名付けたものの、そこに深い意味があったわけではないし、かといって奇を衒ったわけでもなかった。TOOTH TOOTHの時もそうだったが、コンセプトと空間がしっかり結ばれていれば、出来上がった空間が囁いてくれると僕は今でも信じている。それはある意味、アーティストが作品を名付ける作業に似ているのかもしれない。
  ただゴアは、TOOTH TOOTHの時とは少しだけ違う自分も感じていた。今、振り返ると、TOOTH TOOTHは、僕らの好きなこと、持っていたもの、そして知識や金もすべて投じながら、奇跡的に時代とのバランスが取れていたように思える。いわゆる「ビギナーズ・ラック!」だったのかもしれない。だからこそ、ゴアは、店のコンセプトを際立たせることを楽しみながらも、戦略も意識した。

  店作りはもちろんDIY、手作り感満載だ。ベニヤ板にシルク印刷した裸の男の白黒写真を、パズルのようにばらばらにして、真っ赤な壁にコラージュし、怪しく艶っぽい空間を演出した。まるで女装をしたピカソがキュビズム時代に創作したようなイメージだ(※2・3)。そして、当時あまり馴染みのなかった、キャッシュ・オン・デリバリー・スタイルを採り入れたのも、そんなミステリアスな雰囲気を演出するためだった。
  当時、神戸には港町の名残があり、波止場付近にはギリシャ人船員や、リヴァプールの港からやってきた荒ぶれ男たちの為の・外国人バー・が点在していた。カウンターの上にはギネスビールと灰皿、くしゃくしゃになった紙幣、外には外国人目当ての娼婦と、禁断の異国の匂いが生めかしかった。
  そんな匂いを煙らせるために僕が考えたのは、フレディー・マーキュリーのような筋肉質なイメージのマスターを仕立てることだった。でも文科系色濃い僕らには、筋肉という文字が見当たらないし、残念ながら僕らはヘテロであって、生粋の女好きしかいなかった。
  そんな僕らの苦肉の策が、”産毛たりとも許さない、スタッフ全員スキンヘッド”という不条理な掟だった。今となっては笑い話だが、当時の僕は、真剣そのものだった。そこで泣きながらも腹をくくってくれた仲間をバリカンで剃り上げ、スキンヘッド・マスターを誕生させたのだ。
  その初代マスターが小森(※4)だった。この頃から小森は、スキンヘッドなのだが、剃り上げる以前は有り余る髪が、テリアのようにふさふさとしていた。今でこそスキンヘッドが定着しているが、それが剃ったから抜け落ちたのか、抜け落ちたから剃ったのか、わからない好ましい状態である。感謝こそして欲しいものだ。
  そんな「バップバー・ゴア!!」は、アート・ブレーキーやリー・モーガンの名演を肴に、スキンヘッドのマスターが切り盛りし、大繁盛していた。

  2つの店を切り盛りする僕が、「有限会社SO WHAT」を起こしたのも、この頃だ。
  僕自身、組織だとか体制だとかに対してアレルギーがあるほうだった。なにか大衆から搾取する、胡散臭いものだと思えてならなかった。少し前なら、「商売人」と言われると無性に腹を立てていたのも事実だ。でも、「TOOTH TOOTH」「バップバー・ゴア!!」を通じて、僕たちの信じる、かっこいいと思うものが、たくさんの人に楽しんでもらえていることに、手ごたえを感じていた頃でもあった。そして、もしかしたら僕たちなら資本主義とギリシャ神話の橋渡しが出来そうな気がしてならなかった。1992年には、写真ギャラリーを併設するカフェ「サロン・冬の庭園(※5)」を開店させ、その思いはますます強くなった。
  やがて、僕達のクリエイティブな感性で、お店や仲間を増やし、会社を発展させていくことが"使命"だと、決定的づける出来事がやってくる。
  それは明け方にやってきた。
  「阪神・淡路大震災」だ。
         
 
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