Vol.27

森の中で道が二つに分かれていた。
私は人があまり通っていないほうをえらんだ。
それが、すべてを変えたのだ
  
ロバート・フロスト(※1)
『歩む者のない道』 より抜粋

先日、古くからの友人で神戸の伝説的な服屋の経営者である、K君(男)とMさん(女)と会食した。僕自身飲食業を営むまでは服屋の仕事を少し齧ったので、今でもお洋服は嫌いなほうではない。でも近年は、飲食業の長(おさ)としての使命感と責任感、言い換えれば暴飲暴食に明け暮れた“酒と薔薇の日々”の結果、脳みそから臓器の内部という内部がどんよりした目覚めに伴い、「本日私は一体全体何を着用すればよいのだろう?」と完璧に悩む年月が過ぎている。
あんなにおしゃれイズムだった僕なのに。光陰(こういん)矢(や)の如しならぬ、荒淫(こういん)爺(や)の如しだ。ヒッコリー柄のペインターパンツに、ボーダーのT-シャツで出動した折には、"楳図かずお"先生(※2)と言いはやされ、複雑な気持ちになったのだが、ここぞとばかりに“グワシ!”を決めさせていただいた。

僕のまわりにはとっても“オサレ(おしゃれ)”さん達が多い。K君もMさんも仕事柄当たり前だが、とってもセンスが良い。お店のデザインや大工仕事を自らこなしてしまうK君の場合、道具や服に“機能美”を求め偏愛するがゆえ、誰がどこから見ても“とび職人”や“大工さん”“修理工”と、そっちの筋の玄人に見える。そして、Mさんは真逆のハイエンドのモードの世界に住んでおられる。先日なぞは肋骨がプリントされたシルク(たぶん)のシャツ、赤ともピンクとも言い難い紅鮭のような鮮やかなタイツに、地引き網のようなジャケットにくるまれていらっしゃった。センスが良すぎて僕なぞは理解不可能なのだが、本気の“オサレ道”をいつもお二人には見せつけられる。
それは、自分が存在している理由を積み上げる、言い訳のようなものかもしれない。あるいは、世界とのつながりの環を閉じてしまう、"自分を見つけるため"の修行なのかもしれない。
“オサレ”も、なかなか厳しいのである。

さて、その夜は、このところお気に入りの神戸の中華料理店。10人も入ればいっぱいなってしまうその店は、御夫婦で営んでおられる。神戸は南京街もあり華僑の方が大変多く、広東料理の牙城の如く、そのレベル・店舗数において“一日一善一中華”と、神戸人に言わしめるほどだ。そんな中にあり、その店は異端といってよいほどオリジナリティーに溢れてる。「こんなのほしかったのよぉん♡」のど真ん中だ。お店の人には悪いけど、ここは断腸の思いで皆様には教えない。だって、僕がここの飯にありつけなくなる。ごめんなちゃい。

淡路・由良うにを惜しげなく、箱一ケまるごと使った“うに和えそば”。なんと価格は、"箱うに"の原価の値段。「おいしいからなんとなく始めたのですが、お客様に人気でやめられないんです・・」と、申し訳なさそうに?料理担当の御主人。「完全に赤字ですぅ〜」と、うれしそうに?サーヴィス担当の奥様。とても不思議な?ご夫婦だ。さらに攻撃は続く。さっと湯引きして葱醤油で完璧に和えられた“天然河豚”。湯引きしたダシは端正なまで薄味なのに、滋味深いスープに大変身。まだまだあるのだが、極めつけは、キラキラと煌く黄金色の逸品“渡り蟹のあんかけ焼き飯”!!
あぁー思い出してもヨダレがでる。この店は、すべての料理に一筋縄ではいかない“Something”(※3)があるのです。それは強烈な個性ともいうべきでものであり、初めて見たカルト映画のようでもあり、恋した人と過ごした一秒一秒の想い出の風景でもあり、網にかかって水揚げされた紅鮭でもあり、大工さんでもあるのだ。オリジナルとは、かくの如く孤高の営みなのかもしれない。