1986年、なけなしの金をかき集めた僕は、勤めていた会社の近所にあった10坪足らずの物件と契約を結んだ。大通りの裏に入ったこの辺は、もともと華僑のエリアで、細い路地裏には大小様々な中華料理屋が軒を連ねている。その傍らでは、やくざの事務所があちらこちらに睨みを利かせ、『仁義なき戦い』を繰り広げていた。おまけにおかま外国人の痴話げんかもついてくる始末である。まるでB級ドラマに登場する一昔前のブルックリンのようだ。そんなこんなで、家賃は破格に安かった。
そんな場所柄もあったのだろう。街では不法投棄のゴミの山に名前もわからない美しい花が唐突に咲きはじめようとしていた。姉妹で猫のアップリケのトレーナーばかり作る店、一年中クリスマスのものしか売らない店、刺青屋、人体見本をばらしアクセサリーにする店、拾ってきた流木や石に値段をつける店…。風変わりな若い連中の怪しげな店があちこちに点在していた。
いろんな人がそこで、ウマイことやっていたのだろう。それはポール・オースターなら、奇跡と呼びそうな場所で、この地球上である意味、民主的で寛容な場所のひとつに違いないとさえ僕には感じられた。
金のない僕は、友達のオヤジにかけあって、何とか飲食店ができる箱を作ってもらった。今となってはむちゃくちゃな話だが、家の台所より狭い厨房では、スペースと予算の折り合いがつかず、業務用の台下冷蔵庫の上に家から持ってきた家庭用冷蔵庫を乗せていた。おまけに火口は家庭用ガスコンロが鎮座している笑えない状況だ。となれば客席のほうに力の限りを尽くしたいところだが、やはりない袖は振れない。アイディアとセンス、そして一緒に店を作った仲間の愛でいろんなモノを集め回った。
知り合いの倉庫の片隅、荒ごみの日の出動(当時の北野町あたりは宝物の宝庫だった)、リサイクルショップめぐりと、ありとあらゆる技を駆使して、調度品を集めまくった。こうして10坪足らずの店には、国も時代もボーダレスな節操ない物が「TOOTH TOOTH」というDJにミックスされていった。
アフリカンプリミティブアートの木彫りの人形、ヨーロッパの教会の長椅子、ワニの剥製、初代フランケンシュタイン(ボリス・カーロフ)のポスター、壊れたウッドベース、水槽に目をやると、能面の置物が沈んでいる。仕上げは、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(※1)の特大ポスターを間のびした壁にじか張りした。ポスターに貼られたセロテープが、誇らしげに光っている。毒々しいやばい飯屋の誕生だ。
開店して間もない頃、店では「ディップ・イン・ザ・プール」やら、「クレプスキュール・レーベル」、『ヴィクトリアランド(コクトー・ツインズ)』(※2)を流していた。どれも透明感のある曲ばかりだ。“ドロドロの空間にサラサラな音…”。きっと僕なりにバランスをとっていたのだろう。いくらなんでも、この空間で「エリック・ドルフィー」(※3)はないだろうから(でも、しばらくすると、平気でフリージャズやら、現代音楽を流していたけど…)。
〝組み合わせの妙〟
これが僕のバランスの取り方であり、カッコよさのスタンスだ。相反するものがひとつの中に共存する世界はとても美しい。そう、僕の大好きな、「セルジュ・ゲンズブール(※4)とジェーン・バーキン」のように。スノッブでアナーキーな中年おやじと、天使のような金髪の少女の純愛。偽善者と偽悪者の仮面を持つ男…。僕たちの武器は、引き出しにいっぱい詰まった光と影。知識と感情、憧れと現実、夢と絶望を全部ミキサーかけて、出来上がったジュース。色んな畑から集められた色んな品種をブレンドしたシャンパンなんだ。
そういえば、ゲンズブールがこんなことを言っていたっけ。
「スノビズムとは、げっぷになるか、おならになるか、ためらっているシャンパンの泡である」って。