僕がまだ服屋だった1984年、〝神戸〟はバブル前夜の垢抜けなさに満ちあふれていた。パブやディスコでは、アメリカ的なヒット曲がむやみに消費され、コークハイとヴァイオレットフィズが、相も変わらず大手を振って鶏の唐揚げと歩いていた。そんな街のきらびやかさも、どこか僕には虚しく、色褪せて見えていた。

満たされない日々が続いたある日、僕は仕事で東京へ向かった。そこは、至る所にこぎれいなカフェバーが立ち並んでいた。コンクリート打ちっぱなしのモダンな空間にシャンパンカクテル、ムール貝のワイン蒸し。BGMにはニューオーダーの〝Blue Monday〟に、YMOの〝君に、胸キュン〟。

カフェバー、もっと正確に言えばそんなコンセプチャルなお店が受け入れられることがとてもショックだった。僕の知る限り神戸にそんなお店は一つもなかった。そんな衝撃は僕をある強い衝動へ導いていった。「自分で神戸につくっちゃえ!」。そればかりか「もっと面白いものができるはずだ!」と。若気の至りとはこんなことを言うのだろう。今、考えると空恐ろしい話だ。

こうして、怖いもの知らずの1986年が幕を開けた。飲食の〝い〟の字もわからない僕は、かき集めた仲間と開店準備に奔走した。「Lunchon Bar/ランチョンバー」なる造語を冠に業態も考えず、洋服も飲食もアートも音楽も同一線上でこねくりまわした。準備を進める僕らの耳には、ヤング・マーブル・ジャイアンツ(Young Marble Giants※1)のへたくそで安っぽい演奏が聞こえてくる。「そのやり方でOK、僕達といっしょだよ。たぶん大丈夫」って。

「どうして、飲食業へ転身したの?」って、よく聞かれる。たしかに、もっともだ。
一つは、マルコム・マクラーレンの影響が大きい。マルコムは、あの「セックス・ピストルズ」のマネージャーだ。もともとは、ヴィヴィアン・ウエストウッド といっしょに、ファッションデザイナーとして活動していて、ファッションもパンクロック(※2)も節操無く自分の価値基準で、モノ・ヒト・コトをディレクションしてしまう、言ってみたら“愛すべき詐欺師オヤジ”である。

僕自身、料理もカクテルもできはしない。できるに越したことは無いけど、10年料理を勉強してきた人と競争するのは無意味なことだ。おいしい料理を作る人を素直にカッコイイと思えてしまうし、その料理を様々な文脈・様式とミックスさせて、時代の求める形にコーディネートして、よりキラキラさせる方がよっぽど楽しい。嗅覚を研ぎ澄まし、五感をフルに使った感受性豊かな〝ねじれた飲食店〟を作りたかった。そう、マルコムのように。

二つめの理由。それは「モードが教えてくれた」ってこと。
当時、アパレル企画室でデザインをした僕は、モードを通じて色んなカッコいいものを知った。「マーガレット・ハウエルとデビッド・ボウイ」「マストロヤンニとトレロビエラのジャケット」「ポール・ウエラーとフレッドペリー」「アラン・ドロンとモカシンシューズ」。当時、フランスなんて行った事なかったし、ブラッスリーもビストロも、サルトルもピカソも、そしてジャン・コクトーも、全部モードとファションが教えてくれた。

ボーダーシャツ→ジーン・セバーグ→ジャン・ポール・ベルモンド→ジャン・リュック・ゴダール→ヌーヴェル・バーグ(※3)→サンジェルマン大通りのオープンエアカフェ。僕の頭の引き出しに、ぎっちり詰め込まれた、まさに“狂騒の時代!”である。日本を知らないパリのスノッブな芸術家の夢のように、ヴィデオ屋の店頭で映画製作のロマンにはせたタランティーノの頭の中のように、憧れと夢想がからみあう僕の勝手な解釈。異型夢がスタンダードになる日が訪れると信じて。

そんな僕の背中を押してくれたのがヴィヴィアンだった。
〝Let It Rock!〟おっぱじめろ!
理由はともかく、おぱっじめな!
今がチャンスだよ。お前のやり方でOK!
世界に迎合するな!
嘘偽りは叩き出せ!
中指を立てて!
今までの価値観に一撃を食らわせろ!

こうして1986年、たった10坪の握りこぶしほどの「TOOTH TOOTH」が誕生した。22の春だった。